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Voice of ぼいす

音楽を楽しもう
2006年特別号

8月に出た“合唱表現”(東京電化発行)という雑誌に
合唱団ボイスフィールドの指揮者 西牧潤の文章が載りました。
字数の制限から雑誌に載らなかった部分も含めて、ご紹介します。


合唱村は安住の地か〜グローバルな音楽活動を求めて
合唱はパーソナルなもの    - 西牧 潤 -


合唱村ってどこにある?

たいていの人ならベートーヴェンの「運命」やドヴォルザークの「新世界」は知っているでしょう。
でも、「水のいのち」をどれくらいの人が聞いたことがあるかな?
私たちが身を置いている(と思っている)合唱の世界って、実はかなり狭いものなんじゃないか・・と思ったりします。
その狭い世界の中でさして説得力があるとも思えない物差しで一等賞を決めるコンクールの存在っていったいなんだろう。
コンクールが日本の合唱団のある意味での力を飛躍的に向上させたことは、事実だと思っています。
それはそれとして、今必要なのは"その先にあるもの"をしっかり見据えることではないでしょうか。
コンクールのことをここで論じる資格も気持ちもありませんが、たとえば全日本合唱コンクールは何年かおきの開催にするとか、
一度一等賞を取った団体は10年間コンクールに出てはいけませんとか、何か方策を考えなければならない時代にあるのは事実でしょう。
大切なことはその合唱団がそこに存在しなければならない"理由"を自分たちで見出すことだと思っています。
そうすることで、合唱団のメンバーはそこで歌っている意味を感じるのだとも思っています。
表題にあるとおり合唱"村"ですからその世界はごく狭い限られた人たちの集まりです。
これだけ世の中に楽しみが増え、趣味も多様化している時代に合唱を趣味とする人間が限られた人たちなのは仕方のないことです。
しかし、よく考えてみると私たちの趣味《合唱》は聴く人がいて始めて成り立つものだということを忘れてはいけません。
私たちの演奏を聴いて「よかったよ」と言ってくれるフツーの人たちがいて成り立つものです。
合唱村はその村民よりはるかに大勢の周りの村の人たちによって支えられているわけですね。

指揮者の存在、プレーヤーの存在

整然と並んだプレーヤーから遅れて登場し、演奏が終わっておもむろに振り返り聴衆の拍手を受けさっさと引っ込むマエストロ。
自分では音は一切出さないのになぁ・・。
自分が指揮者であるにもかかわらず、時々そんなことを考えます。
その指揮者の指先の統治によってまるで軍服のように同じユニフォームで同じような顔で歌うプレーヤーたちの存在は何?
統制のとれた演奏に感心する一方で、そこで奏でられる音楽に、詩に何を感じ、何を伝えたいのか。
どんな言葉を歌う時でもみんな同じ表情。どうして笑わない?どうして泣かない?そんなの歌じゃない!
君たちはどんな生き方をしてきたの?今、何を考えてるの?歌ってて楽しい?そんな思いが頭をめぐる。
君たちがここにいる理由って何??

大切なのは"個人"

合わせることは大事なことですね。
でも、"合わせる"ことをちょっと勘違いするととんでもない方向に行ってしまうような気がしています。
自分を押し殺して音楽することが楽しいですか?そんな最大公約数みたいな演奏を聞きたいですか?
チームワークは個性のぶつかりあいだと思っています。
それを実現するのが練習だとすれば、譜読みや音取り、歌詞付けってどれほどの意味があるでしょうか。練習では音楽がしたいですね。
もし、譜読み、音取り、歌詞付けが個人の問題として練習の前に処理されていれば、きっと合唱団の練習はもっと生きたものになるに違いありません。
私はできるだけ練習の最初の段階からその作品から放たれるメッセージや音譜にこめられた作曲者の思いをメンバーに伝えようと思っています。
たとえば大学生の合唱団、その多くは一週間の間に3日から4日くらいの練習があるのでしょうか。
彼らは繰り返すことでその音楽を自分のものにしようとしているように見えます。
そこから生まれるものは、いつ聞いても均一な音楽、ミスのない音楽。まるで日本の工業製品みたいです。
音楽って美術と違ってその場で消えてしまうもの。そうならば、今ここでしかできない演奏がしたい。
昨日とは違うぼくがここにいる。ならば昨日の演奏と今日の演奏がとは違って当然。
そのことは、練習を繰り返すこととは少し違うんじゃないかな・・と思います。
もっと外へ目を向けて。本を読んだり、映画を見たり、違うジャンルの音楽を聴いたり、人と話したり・・。
練習の外に音楽へのヒントは無限にあると思っています。そして、全く違う"個人"の集まりが合唱なんですね。

勝ち組?負け組?

そんな言葉が聞かれるようになって久しいですが、合唱の世界にそんな言葉があるとすれば"上手な演奏"をする合唱団が勝ち組なんですか?
すごく淋しいことですね。幸せ組ってのがあるといいですね。
つまり、歌っている人たちが「幸せだ」と思えれば、それはきっといい合唱団なんだと思っています。
人間は思い出に生きる動物ですから、いい思い出をたくさん持っている人は幸せ組なんです。
合唱村が栄えるためには幸せな村民がたくさんいればいいんです。きっと。
幸せ、いい思い出って・・。たとえば、心から感動する作品に出会えた。一緒に歌う人がすばらしかった。
聞いてくださる方々が喜んでくれた。・・・そのどれもが、本稿でずっと述べている"個人"があってのことです。
個人が光を放っていれば必ずその光を跳ね返してくれる人がいる、握手をしたら人の手のぬくもりを感じるように、
演奏を聞いてくださる方々に何かが届く。そう信じたいと思います。そろそろ、横の人に寄りかかって歌うのはやめませんか?

レパートリーの多様性

少し具体的に、私自身が行っている取り組みについてお話します。
日本の合唱界のある意味の"狭さ"を感じて以来、できるだけ多様なプログラミングを提供するように心がけています。
私がお手伝いしている合唱団はどこも発展途上のものですから、特にそれは大切なことだと思っています。
一つ目はシアターピース。動きを伴うことでメンバー一人一人が、今までおろそかにしていた言葉の一つ一つや音の動きを考えるようになります。
また、"うた"が人々の生活とともにあり、人間のいるところ"うた"があるということを思うと音楽に動きを伴っていたとしても何も不思議なことではありません。
二つ目は世界に目を向けること。我々が知っている世界は実はほんの一握りのもので、
その外側に知らない世界がいっぱいあり、そこには知らなかった音楽が山のようにあります。
そのことに気づいてから、言葉の障害を乗り越えて取り組めばうんと幅広い活動ができると思っています。
オーケストラの人たちがモルダウやフィンランディアを日常的に演奏するように、
われわれも勇気を持って世界中の音楽に取り組むことでもっと楽しみは増えると思っています。
三番目は合唱以外の世界とのコラボです。
合唱の共演楽器はピアノがその主なものですが、他の楽器とのコラボレーションはまた違った楽しみがあります。
オーケストラは色彩豊かですし、和楽器の独特のテンポ感やアタック感は合唱にはないものです。
「オーケストラを呼ぶにはお金がかかるし」という声が聞こえそうですね。
実はオーケストラの人たちは私たちが考えている以上に合唱に興味を持ち、何かおもしろいことを一緒にやりたいと思っているものです。
コンサートのプログラミングをする時、たいていの場合全体を3つか4つに区切り、その区切りごとにどんな作品を取り上げるか考えます。
日本の作品に多い"組曲"という曲集はまさにこの区切りにはまりやすいものですから、ついつい私たちはその組曲を単位に考えてします。
でも、その区切りを取り払ってプログラミングしてみると興味深いプログラミングができると思っています。
特に外国語の作品には組曲というものはむしろ少なく、一曲数分でいい作品が多いですから、
それをあるテーマに沿って並べてみることで今までとは違ったものが見えてくるかもしれません。
日本の作曲家の方々にもそういった小品をたくさん書いてくださると嬉しいと思っています。
合唱はオーケストラよりはるかに指揮者と団体の絆が強いと思います。
ここまで書いてきたようにプレーヤーにとって幸せなことはいろいろな体験をすることだと思っています。
そう考えれば、みなさんの合唱団でも一度別の世界からの指揮者を呼んでみてはどうでしょう。
特に、普段楽器と活動をともにしている指揮者と共演することは合唱団にとっても目からうろこってことも多いと思います。

自由に・・もっと・・・

それぞれの合唱団にはそれぞれの歴史があり、固有のやり方みたいなものがあるのでしょう。
何か新しいことに取り組もうとした時、今までのやり方を変えてみようとした時、抵抗感はつきものです。
しかし、私たちが今までに見てきた世界が、全体のほんの一部分だと知った時、
まだ見たことのない世界がどんなものなのか興味を持った時、もっと自由な取り組みができるに違いありません。
うまくいかなければ引き返せばいいだけのことで、それが生死を分けるようなことはないでしょう。
たとえば、私たちは現代音楽を難解なものだと思っていますが、それらが誕生した時代が
バッハやモーツアルトよりももっと我々の感性に近い時代だと考えれば、今を生きる私たちにはむしろ取り組みやすいものなのかもしれません。
あまり囚われずに自由に無邪気に・・。指揮者にもプレーヤーにも最も大切なことだと私は思っています。

幸せな人との出会い

生来引っ込み思案で人見知りで臆病者な私を合唱は仲間のもとへと連れ出してくれた。
その合唱村で出会った多くの人々や作品のことを一生忘れることはないと思っています。
その思いがあるかぎり、私は幸せ組でいられる。これまで私は多くのものを頂いてきたけれども。
それを今度はお返しする立場になって、音楽の楽しみ方を少しは教えられるかな?と思います。
でも、音楽の愛し方は教えられないな。最後の大切な一歩は、自分で踏み出すしかないんじゃないかな。